術後4日目から退院までは、大きな問題もなく順調に回復していった。若さは大いに関係するところなのかもしれない。特に日々体育会系のサークルで身体を鍛えていたことも良かったのだろう。
目次
術後4日目
待望の食事がお昼から出た。
重湯にスムージーのようになった野菜などなど。
以外にも「普通」の食事だった。
これがずっと続くと嫌になるのだろうが、約3週間ぶりに「お米」を食べる次男は、宝物のように重湯をすくうと大げさかもしれないが恍惚の表情を浮かべて口にスプーンを運ぶ。
ひとくちひとくちを大切に・・・、そしてあっという間に完食。
あぁ、本当に人間って食べる事がどれほど大切なんだろう・・・と見ていて実感した。
食事がどれほど脳を幸福で満たしているのかが良くわかる瞬間だった。
何を食べるかではなく、誰と食べるか? どういう状況で食べるか? ということが大切なのだろう。
「おいしかった?」と聞くと次男は満足そうにうなずく。
物足りず、病院のコンビニへ二人で行き、乳酸飲料を購入して飲んだ。
「甘味」も幸福度をアップする。(のちに市販の飲料はNGとするが・・・)
その夜次男から
「便が出たよ!」と連絡がきた。
ベテラン先生のいう「押し出し方式」が見事に的中した。\(^o^)/
さっすが~!
これは私の素人判断だけど、「経験」ってやっぱりすごいと思います。
蓄積された知識のデータベースからマニュアルとは違うルートを手繰ることができるのは、「確かな経験」に基づくものなのだろう。
たかが「便」、されど「便」。
術後5日目
みるみる間に回復していく。
若いってすごい!!
食事も重湯から五分がゆになり、シャワーも浴びて良いとのこと。
腹腔鏡手術だからこそなのだろう。
シャワーと言えどもお湯を浴びることでなんともすっきりしたすがすがしい顔つきになっていた。
夜には自宅から持参した「温泉のもと」で再び足湯をしてあげた。
また泣いちゃうかな・・・と思ったら・・・
見上げると、スマホでアニメを観ていた!!(;゚Д゚)
昨日は泣いてたのにぃーーーー!(+o+)
私はひざまずき、王子様のおみ足をマッサージする侍女さながらだった。┐(´∀`)┌
ご飯を食べられるようになり、精神的にも落ち着いてきたのだろう。
病は身体だけではなく精神にも大きな影響を及ぼすということだ。
だから「病気」というのかな・・・
卵が先か鶏が先か・・・と同じ理屈か、身体が悪くなると精神も弱くなり、精神が弱ると身体もなにがしかの影響を受けるようになっているのだろう。
身体や心から発せられるSOSに気づくことが大事なんですね。
絶妙なバランスで私たちは「健康」を保っているということでしょう。
退院まで
私が病院に行っても次男はベッドにはおらず、ひとりで病院内を散策していることもあった。
病院にはコンビニ以外にも様々な店や公共施設があり、伸びきった次男のボサボサの髪を散髪店で切ってもらったり、次男の好物の蕎麦屋に行ったこともあった。
最上階には景色を楽しめる空間も用意されていた。
ある日は午後のひとときを「今日は特別」と言いながら甘いココアを飲みながら紅葉を眺めたり、またある日の夜はキラキラの夜景を観ながら「今ここに見える範囲で18歳でステージ3の大腸がんって多分〇〇ひとりじゃない?すごい確率だよ!」なんてブラックジョークを飛ばし笑って過ごすこともあった。
歩けること、食べられる事、「普通に過ごす」ことがいかに貴重で、奇跡の重なりなのだと1つ1つ出来ることが増えていくたびに神様に感謝した。
ようやく状態が落ち着き、心配していた夫の母や私の父、本人からすると祖父母が見舞いに来てくれた。病気が病気なだけに他の親族からの見舞いは断っていたが、なんでしょうね~、こういっては何ですが、年寄りは言うことを聞いてくれません。(苦笑)
来たって特に楽しい話をするでもなく、何なら病気のことを本人の目の前で根掘り葉掘り聞こうとする。
私は決まって最上階のレストランにお連れし、次男にも食べれそうなものを注文し、「食べること」に集中してもらうことにした。
他の大学病院のことは存じ上げないが、ここのレストランは誰でも利用でき、医者は入口で白衣を脱いでレストランに入るルールだった。
お酒も提供されていた。(@_@;)
多分何かルールが敷かれているとは思うが、お食事も病院のそれとは違い凝ったメニューもそろっていた。
見ると、「リーガロイヤルホテル」のロゴが入っていたので、なるほどね・・・という感じ。
すっかり元気を取り戻しつつあった次男の元に大学のサークルの親しい友人も来てくれた。
そんなときは飲み物を用意し、私はカフェや談話室で時間をつぶした。
遠くに見える太陽の塔の後ろ姿を見ながら、この先どんな困難が待ち伏せているのか全く予想ができずにいた。
気づけば晩秋
私は普段は仕事で車を利用することが多いが、趣味で400CCのバイクにも乗っている。
時間帯によっては病院の駐車場に入るまで非常に時間がかかることがわかったので、天気が良ければバイクに荷物を積んで次男の元へ通うことも少なくなかった。
次男の癌がわかったときはまだ残暑が残る晩夏であった。
その時はバイク用のメッシュのジャケットを着用していたが、この頃にはバイク移動はとても寒く、ジャケットの中にインナーを装着して通っていた。
バイクは私の相棒。
面会時間が終わると次男を病院へ残し、バイクにまたがりエキスポランドの観覧車の輝きの下を通過しながら何度涙したことか知れない。
その涙は決して悲観や絶望の涙ではなく、ただただ次男に降りかかった禍いに対して、どうしてあげることも出来ない悔し泣きだった。
「〇〇、がんばれ!〇〇、大丈夫!絶対にお母さんが守るから!神様どうかお願いします!!どうかどうかお願いします!!!」
ヘルメットの中では何を言っても誰にも迷惑はかけない。
何度もそう泣き叫びながら走っていた。