絶食開始

入院してから手術まで約1週間、検査が続いた。

転院前の病院からだとすでにまともな食事は1週間以上も摂れておらず、点滴とわずかな飲料だけを頼っていたが、大学病院では栄養補強のための缶と紙パックのジュースが朝昼晩と出された。

これが相当不味くて、次男はなかなか飲めない。私も試しに一口飲んでみたが、うげーーー。(*´Д`)

これだけで心が萎える。可哀そうだが仕方ない。

このころの次男の楽しみは、テレビの料理番組を観ては、「退院したら食べたいものリスト」なるものを作り、ひたすら書き込んでいた。(苦笑)

入院したのは秋だったので、「サンマを使ったパスタ」が紹介されていた。

超絶美味しそうで、「絶対に食べる!!」と言っていた。退院してから作ってあげたかな~???

いよいよ手術の2日前からは絶食になり点滴に切り替わる。

あの不味いジュースからは解放されたが、レントゲン検査を受ける際に、貧血でうずくまってしまったと病院から連絡が入った。絶食のための血圧低下だと思われるとのこと、点滴に栄養を加えてくれたらしい。

手術前日

手術前日には下剤が予定されていたが、貧血のためか中止になったと看護師の方から告げられた。

夜になると「ふくらはぎが痛い」と次男が訴える。

看護師さんに伝えると、別の先生が見に来てくれた。

「とりあえず様子を見ましょう。」とのこと。次々と次男が不調を訴えるので、心配でたまらなかった。

次男が入院してからというもの、朝から晩まで病室に付き添い、パソコンを持ち込んで仕事をしていた。

夫は会社員だが、私は自営だったことで、ある程度自由がきいた。そんなに儲かっていなかったので、仕事を断るということも少なく、ある意味助かった。

横で「断食 ふくらはぎ」など検索しては、「断食するとデトックス効果でふくらはぎが痛むことがある」との記事を見つけ少しホッとした。次男がそれにあたるかはわからないが・・・。

入院の様子

手術前の1週間、次男は相変わらず肛門から管を出し閉塞が起こらないようにしていた。

その管の先には排出物を貯める袋がある。私たちはそれを「う○こ袋」と呼んでいた。

暇を持て余し病院内を散策したくても、その「う○こ袋」がついてくる。年頃の男の子がそれを連れにウロウロするのは恥ずかしいだろうとカバーを作ってあげた。

日中は院内のコンビニに行っては買えないお菓子を眺めてみたりしていた。

また大学へ戻ったときのために、試験勉強もしていた。

回診で来られる若いの先生と大学の話しで盛り上がることもあったようだ。

今、思えば先生の心遣いだったのだと思う。

若手先生の心遣いに感謝

あるとき、私はあまりに次男が自分の病気のことを考えていないのが気になり聞いたことがる。

「病気のこと、気にならないの?」と。

すると次男はこう答えた。

「○○先生(若手の先生)が、病気のことで聞きたいことがあったら僕に聞いて。ネットとかで調べないで僕に聞いてくれたら全部答えるからって言ってくれたから。」と。

その時、私は少し不安だった。

たしかにそうだろうけど、どんな病気なのかをしっかり自分で調べて、自分で治すんだ!って強い気持ちがないとダメなのに・・・と。

しかし今思うと、この先生の助言があったからこそ、次男は意識的に「インターネットで調べる」ことをしなかったのだ。

もし調べていたら、どれほど恐ろしい思いをしただろう。

能天気に「食べたいものリスト」なんて作っていられなかっただろう。

そうでなくても、次男のスマホには病状を知った親族から

  • 絶対に大丈夫だから!
  • ○○なら乗り切れる!
  • 今すぐお見舞いに行く!

などの励ましの通知が届いていた。

私は「お願いだから刺激しないで欲しい!」「こちらから連絡するまでお見舞いも来ないで!」とヒステリックになっていた。

長男からのアドバイスの「大丈夫とか言うな!」という意味がよくわかった。

言われれば言われるほど不安になるのだ。そんなに大変なことなのか?と。

次男は病室で、有り余る時間をガンダムのプラモデルを組み立てたり、試験勉強をしたり、普段読まないような本を読んだり・・・と若くして罹患した低分化腺癌の大腸がんについては調べずに過ごしていた。

初めてのガンダム
このガンダム、退院後どうしたっけな・・・